JESU, JOY OF MAN'S DESIRING
「相手は五歳にもならない、子供だったってさ」
「眉一つ動かさなかったっていうじゃないか」
窓の外から、そんな声が聞こえた。
誰のことを言っているのかは、すぐに判る。
たぶん、この部屋を指しながら。
噂の主はとうに出かけているはずだと、思いこんでいるのだろう。
人の命と引き替えの、特別休暇を『まんまとせしめて』。
(そのとおりですよ)
そう、言ってやってもよかった。
(四歳の子供を)
(その忠実な老僕と乳母をも巻き添えにして)
この手で殺したのだ──と。
子供の立場などには、興味がなかった。いずれ名家の、わけありの子息であることは、聞かずとも推測がつく。
初めての任務だったわけではない。だから、恐怖も、迷いもなかった。
ただ、銃を向けた時の子供の瞳が、澄んだ緑だったというだけだ。
亜麻色の髪と緑の瞳は、ハルモニアの貴族には珍しくはない。それがたとえ、誰かを思い出させたのだとしても、ためらう必要などなかった。
(いや……違う)
思い出させたからこそ、引き金を引いた。
後悔しているのかと、自らに問う。
(まさか)
(そんな感情を持ったところで、すべては手遅れだ)
では、苛立ちに近いような、この気持ちは何なのだろう。
何かが、足りない。
何かを、求めている。
「…気にすんなよ」
ふいに声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。
「あいつら、やっかんでいるだけなんだから」
いつ、部屋に入ったのかさえ、気づかなかった。
たった今、記憶の片隅をよぎったばかりの亜麻色の髪が、日差を浴びて柔らかく光っている。
「仕方ないよ──任務だったんだ」
ナッシュ・ラトキエ──子弟級ガンナー見習いであり、ハルモニアの貴族の総領息子は、そう続けた。
偶然にも同じ日に休暇をもらえたということで、街まで馬車を仕立てて一緒に帰ろう、と提案された。
「仕方ないよ」
もう一度、ナッシュは繰り返した。慰めてくれているらしい。
「仕方ない……」
では、『仕方ない』ことなのだろうか。
三日間の猶予と、その先に待つ、逃れようのない命令も。
これは正当な取引なのだと、あの男は言った。だから、拒否権も、考える猶予も与えてやる、と。
そして、お前にとって決して損な取引ではないはずだ、とも付け加えた。
与えはする。だが、選択権だけはないようだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑い出したくなるほどだ。
「……ザジ?」
肩に手を置かれて、ふと我に返った。妙に力が入っている。
目を上げた瞬間──視線が合った。
異様な熱を帯びた視線に、本能的な恐怖を感じて、とっさにその腕を振り払っていた。
「な…んだよ」
意外そうな声ではい。むしろそれを誤魔化そうとするかのようだった。
彼も、気づいている。
どちらが先に動いたのか──立ち上がり、距離を置こうとしたのと、ナッシュの腕が身体を捕らえたのは、ほとんど同時だった。
勢い、床に転がる羽目になる。それでもナッシュは、手を離してはくれなかった。
目が離せなかった。緑の瞳が、同じように何かを欲している。
なぜ、ナッシュが──よりによって彼が、こんな行動に出るとは、考えもしなかった。
けれど、瞳は何よりも雄弁に語る。
逃げないでくれ──と。
頼むから、逃げないでくれ。そばにいてくれ──
迷子の子供のような目だった。
迷うことも、悩むことも無縁のように見える彼も、心の中に空洞を持っているというのだろうか──
そうなのかもしれない。
組合の秩序と規律。
そして表面上は友好を装いながら、常に一線を引く同僚たちとの人間関係に、ナッシュが疲れているということは、感じていた。
たぶん、故郷ではたくさんの友人たちに囲まれていたのだろう。さしのぺた手が意味もなく拒絶されることなど、考えたこともなかったに違いない。
突然、閃くものがあった。
天啓、だった。
これは、たった一つ残された可能性なのだと。
(今しかない──)
そっと息を吐き、身体の力を抜く。そのことで、却ってナッシュのほうが戸惑ったのかもしれない。離そうとした腕を、押しとどめた。
「…いいのか…?」
ためらいがちに寄せられた唇を、自分から求めたのが、答えの代わりになった。
千載一遇の好機を、逃すわけにはいかない。罪悪感など振り飛ばした。たとえそれが、彼の見せたほんのわずかな隙につけこんだのだとしても、だ。
──三日やろう──
あの男の声がこだまする。
猫が鼠をいたぶる時のような目だった。
──三日の間に、肚を決めることだな──
何を決めろというのだろう。
拒むことなどできないと知っているはずだ。
さまざまな派閥の交錯する組合の中で、何一つ後ろ盾のない身は無防備すぎた。身体を差し出すことでそれが得られるのなら、拒む理由もない。
長老然とした風格を見せつけるようなあの男の、欲望に満ちた視線も、耐えられるだろう。
それでも、せめて──
せめて、初めて抱かれる男くらいは自分で求めたい。
それが、たったひとつできる、ささやかな復讐なのだから。
「────」
ナッシュが、何か囁いたような気がする。
緑の瞳と、あの男の声が頭の中で巡る。
もう、何も聞きたくなかった。
これまでに犯した罪も、これから犯すであろう罪も、すべて考えずにいたい。
ただ、今はこのぬくもりに、身を委ねていたかった。
完
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